みかづき
真夜中のニャーゴの中で朝井リョウさんがおススメしていた「みかづき」を読み終えた。
自宅の本棚に森絵都さんの作品は置いてなかったので、読書の幅を広げるいい機会になった。
真夜中のニャーゴの中で、朝井リョウさん加藤千恵さん、お二人とも大絶賛していた。本屋大賞の予言もしていたほどの作品。
期待を大きく超える作品だった。
時代に合わせて変わる「日本の教育」の方針に、学習塾がどう適応していくか、適応しつつ変えてはいけないもの信念をどこまで守っていくか。
自分が受けてきた教育に対して、疑問すら抱いてこなかったどが、舵を取る側の視点を持つと、私たちが何気なく受けていた風向きに合わせて塾の立場をどう持っていくか、一歩先を考えニーズを満たせるようなサービスを作り出すのかなど、目まぐるしいのだなと知ることができた。
私はゆとり世代といわれる時期に学生をやっていた。
確かに、授業数も少なくなりこどもが自由に使える時間は増えたのかもしれない。その時間を自発的に勉強に使ったり有効に使えればその子の学力を含めた力もあがる、親が見かねて塾に行かせれば、何とか学力を維持できるかもしれない。
一方でそういった環境がない、作り出せないこどもはどんどん置いて行かれる。ゆとり世代って、エリート教育だったなんて、、。
別に勉強ができたわけではなかったけど、教育に関して環境を整えてくれていた家族に感謝しなければならないと思った。
大島家の内部の描写もあったけど、最終的には実家に帰って、定職につかなくてもごはんが食べれる家族で、、自分たちの信念を貫いていて素敵だけど何があっても帰れる家があることが安心材料になっているのだろうとも考えてしまった。
ひねくれ屋の考えか。
だから、最後教育格差を取り上げ、学習支援のことにも触れていたのが、救いになった。
吾郎が、
「常に何かかが欠けている三日月。教育も自分と同様、そのようなものであるのかもしれない。欠けている自覚があればこそ、人は満ちよう、満ちようと研鑽を積むのかもしれない。」
と語っていた。
私なんて、いつも自分の未熟さに嫌気がさしているけれども、
この先、この一文に救われることがきっとあるのだろうなと思った。